渋沢栄一がチートと言われる理由は?意味と社会功績についても

2019/04/11
 
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扉子
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2019年から数年後(2024年ごろ)に紙幣のデザインが一新されることになりましたね!

 

 

10,000円札は渋沢栄一と決まりましたが、正直なところ渋沢栄一って誰?と思った人は多いのではないでしょうか。

実は扉子も渋沢栄一と聞いて、誰?思った1人なのです。

そこで今回は新10,000円札の肖像に決定した渋沢栄一の生い立ちや経歴功績、またチートと呼ばれた理由についてお伝えします。

 

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渋沢栄一がチートと言われる理由

 

チートという言葉の意味

渋沢栄一がチートと呼ばれている理由ですが。

そもそもチートっていう意味知ってましたか?

ゲームやコンピューターゲームをする人ならなじみがあるかもしれませんが、一般的にはあまり知られていないカタカナ語です。

チートのもともとの語源は英語の「cheat」ですが、「cheat」には不正を働くイカサマをするといったような意味があります。

 

渋沢栄一はチート

そこから転じて凄く強いプレイヤーといった意味もあり、「イカサマをしなければここまで強くなれるはずがない」といったような意味を持っています。

渋沢栄一がチートと呼ばれる理由はその多彩な才能と大きすぎる功績によるものから来ているのですね。

 

渋沢栄一の生い立ちや経歴

 

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渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市に生まれます。

渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を経営し、米・麦・野菜も手がける豪農でした。

原料の買い入れと販売を担うために算盤を弾くような商業的なセンスも求められました。

渋沢栄一は父について家業を手伝うことで後の現実的な合理主義思想を養ったそうです。

読書や四書五経などの勉強もしていましたが、剣術もしていました。

その剣術の道場に入門したとき、勤皇志士と交流します。

この影響から尊王攘夷の思想に目覚め、京都に出ますが既に勤皇はが凋落したあとでした。

渋沢栄一は一橋慶喜に仕えることになります。

一橋慶喜が将軍となった後渋沢栄一は幕臣となります。

御勘定格陸軍付調役の肩書きを得てフランスへ渡航し、パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問します。

この時ヨーロッパの先進的な産業・軍備、そして社会を見てかなり感銘を受けます。

渋沢栄一がヨーロッパに滞在している間に日本では大政奉還がありました。

その後新政府から帰国を命じられ渋沢栄一は横浜港に帰国します。

帰国後渋沢栄一は大蔵省に出資します。

しかし予算の編成をめぐって大久保利通は大熊重信と対立し、退官します。

その後商法講習所を設立し実業家の道を歩むことになります。

この後渋沢栄一は実業家として活躍し平成6年に92歳で死去しました。

 

渋沢栄一が残した社会功績

渋沢栄一の残した社会功績は莫大な数に登りますが、まず大蔵省大間後まもなく官僚時代にに指導を設立していた第一国立銀行(みずほ銀行)の頭取に就任します。

また第一国立銀行だけでなく七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導します。

更に銀行だけではなく東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、田園都市(元東京急行電鉄)、秩父セメント、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、明治製糖など多種多様の企業の設立に関わりその数は500以上と言われています。

また、外人土地所有禁止法(1912年)に見られる日本移民排斥運動等で一部関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関や日本のニュースを送る中心者を立案します。

成功はしませんでしたが、これが現在の時事通信社と共同通信社のもととなりました。

社会活動も熱心で、養育院の院長を務めたほか東京慈恵会、日本赤十字自社、らい予防協会の設立等に関わりました。

また教育にも関心が高く商法講習所(現一橋大学)、大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力し、二松學舎大学の第3代舎長に就任しています。

また女子教育の必要性も捉えており女子教育奨励会を設立、日本女子大学校、東京女学館の設立にも関わっています。

 

また民間外交の先駆者としての側面を持っており、1931年に中国で起こった水害のために中華民国水災道場会会長を務め義援金を募るなどしています。

渋沢栄一は1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなっています。

ということで渋沢栄一のチート振りがものすごいよくわかる経歴と社会功績ですよね。

 

まとめ

渋沢栄一は幼少期に学んだ論語をよりどころに倫理と利益の両立をはかりました。

経済を発展させ利益を独占するのではなく、国全体を豊かにするために富は全体で共有するものとして社会に還元することを説き、自身も心がけました。

これだけの社会功績がありながら、渋沢栄一だけは財閥を作らなかったのです。

また渋沢栄一は実は既に銀行券になったことがあります。

1902年から1904年にかけて大韓帝国で発行された初期の銀行券1円・5円・10円には渋沢栄一の肖像が描かれていました。

実はすごい人だった渋沢栄一。新しい10,000円札を眺めながら彼の功績に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

このページはWikipediaを参考にしました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

 

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